『ボウリング・フォー・コロンバイン』

木曜にテレビでやってて、それ観た彼女が
すげえおもしれーと言っていたので、
ビデオで借りて観た。
というか、今さら観た。
ワタクシも今年「アメリカの文化と思想」なる
単位稼ぎ講義を受講しているので、非常に
勉強になりました。
資本主義の限界という状況でのアメリカ経済のあり方、
その末端の産物としての銃社会
うーん、なるほどなるほど。
俺馴染みないけど、非常によくわかるわ。


ライフル協会の会長宅に殴りこむのも面白いけど、
俺としてはメディアが強大な影響力をもって
個人のリアリティに侵食しているっていう構図が
一番面白かったし、映画を離れて色々考えさせられた。
しかし、アメリカ人も日本人もメディアの言うことに
簡単にコロッといってしまう点では本当に有象無象
ばかりなんだねえ。
コロンバイン高校の事件でもなぜかマンソン独りに
槍玉が上がったけど、メディアに恐怖心を呷られて
銃火器を買いに走ったり、肉が危ないってなったら
即座にベジタリアンになっちゃう一般人より
学校で虐げられて家に帰ってヘッドフォンで
マンソンを聴いている、っていう類の高校生の方が
よっぽど幻想と自我とを切り離して捉えられてると
思うんだがな。


例えば俺だって充分にそういう危険を孕んだ高校生
だったわけで、もしうまくバランスを取れなかったら
自家製爆弾でも作って学校にばら撒いてたかもしれないけど、
その時に聴いている音楽に原因を求められたら、
これ以上ない位に腹が立ったと思う。
バカにするんじゃねえ、メディアに呷られてるのは
テメエら大人の方じゃねえか、と。
(もっとも、一人っ子のせいにされたり、
医者の息子でボンボンだから、ということを
露骨に言われたりはしたから似たようなモンか。
自意識過剰なお年頃の男のコにとってあれ以上の
屈辱というのもない)


うーん、この話題はどこまででも枝葉を広げられるから
まとまりがなくなりそうだが、何しろ今起きている
あらゆる末端の社会現象というのは
個人とメディア(特に映像)との関わり方に
原因を求められる場合が多いと思う。
実際の生活で感じるリアリティとテレビを通じての
リアリティとの立場が逆転してきているのは
今に始まったことではないでしょう。
昨日見たテレビの話題でしか盛り上がれず、
肝心の人間同士としての話し合いができない。
映像という画一的なイメージを植え付けるテレビ。
本来一人一人の中で育っていくはずの幻想は
共有され、次第に自分と周りとが同じじゃないと
不安になるという心理が生まれてくる。
受身でしかいられない為に当然文化レベルは下がる。
想像力が死んでいく。
クリエイターが作ったものがそのまま幻想だと
盲信するようになる。
くだらないものが流行る。


俺がぶっ飛んだSFやアクション映画が苦手なのも
そこなんだと気づいた。
幻想が映像という形で共有されてしまうのが
気に入らないんだ。
指輪物語』だって、映像になってしまったら
何も面白くない。
小説だから、文だからよかったわけで、読み手の
頭のなかには無限の世界が広がっていたはずなんだ。
想像力の挟み込む余地のないものは何にも面白くない。
俺は特に、究極自分にしか興味のない人間だから、
自分から何を引き出せるかという点に一番関心があるから
テレビなんて時間の無駄でしかない。
観てると無気力になる。頭に霞みがかかったみたいになる。


俺が今やっているバンドはイメージの広がりを
一番大事にしていて、詞もそれ自体が断定的だったりすることは
避けて、聴き手一人一人が物語を作り出せるようなものを
目指そうとしている。
やりたいことは全部そこに集約するような気がします。
自分自身の幻想なり妄想なりしっかりと持って、
その上で現実の毎日の生活にしっかり目を見開いて、
人間らしく生きましょう、ピース。という。
合理主義社会の省みなかったものをまずは取り戻そうよ。


ああ、なんかバカみたいに映画の話からふっ飛んでしまった。
そんな考えさせる映画です、
ボウリング・フォー・コロンバイン』。
華氏911』も観に行こうかなあ。