『TAKESHIS'』@新宿ピカデリー。

juriano2005-11-06

http://www.office-kitano.co.jp/takeshis/
恐るべき映画だった。
俺は、武はここらで『みんな〜やってるか!』のようなものを
撮って相対化をやったほうがいいと思っていたけど、
そのセンでは予想的中のようだ。
武はいつも本能的に自分殺しをやっているところがタフだし、
そこが一番魅力的なところだと思っている。
いい年してこれを撮ってしまうというのは凄い。


この映画にはテレビ界のスターとしてのビートたけし
売れない役者、北野武が登場し、それぞれが武自身の
分裂した自我を象徴するような役回りになっている。
いわば武の内面劇。
この話だけ聞くと、作家性を盾にしたオナニスティックな
映画と捉えられても無理はないと思うし、俺もその辺りを
心配していたけど、分裂した自我を眺める第三の視線は
とても冷めていて、危うさは感じさせなかった。
むしろ、最近作のなかで一番肝が据わっていて、
迷いがないように俺の目には映った。


フラクタルという方法論を敷いて綿密な計算をしているのが
この危なっかしい主題を扱う上で功を為していると思った。
この作品のタイトルは初め『フラクタル』になる
予定だったそうだ。
俺はその概念をよく知らないけど、一枚の葉っぱが木になり、
森になり、全てが同じ形をしているというものらしい。
モチーフの発想を広げたようなものなのだろう。
作品中には様々なモチーフが神経症的に繰り返し出現する。


色に関して言えば、赤と青が随所に挿入されて
サブリミナル的な危ない映像美を作っている。
赤と青はフラクタルで言うと最もミニマムなモチーフだろうか。
その対比は北野武ビートたけしの対比に繋がるし、生と死も
象徴しているかもしれない。
今さらフラクタルと言わなくても、武は元々暗喩の感覚、
あるイメージの背後に別の意味を連想させる感覚に
長けているけど、この映画は基本的に「夢」として進行するから
その感覚が最大限に駆使されている。


また、既作品の場面が至るところで再現されていて、
デジャ・ビュのような感覚に陥るんだけど、これもいわば
武の全映画を通したフラクタルをやっているんだろう。
自分と向き合って物を作っている作家は自ずと全作品を通して
円環してしまうものだから、わざわざ見せる必要もないとは
思うけど、多分この錯乱が重要なんだと思う。
全てが繋がってしまう、木と森が同じだと錯覚させる
ところに何か重要なものが潜んでいるような気がする。
それが何かは俺にはまだよく分からない。


ドッペルゲンガーや夢といったキーワードは生と死の
主題を扱ってきた武にとって自ずと行き着いた地点
なんだろう。
夢というのはフロイトでいうと抑圧した無意識、
本来認めたくない考え=死を直視する行為だから。
そう考えると、意識の拡張を求めた20世紀初頭的な
気品すら漂わせているような気がしてしまう。
本質的には、とても怖いことを言っている映画。
俺は勝手に飛躍しているけど、ほかの人が観て
どう思うのかがとても気になる。
その意味でぜひ観てほしい。