「風立ちぬ」についてモヤる。

風立ちぬ」初見の印象と、周囲の反応・レビューとが
だいぶ食い違っていて、モヤモヤし続けているので
もう一回観たいなと思っているんだけど。


自律神経が失調しているのかわかりませんが
最初見て不覚にもぼろぼろ泣いてしまったんだけど。
それは何が泣けたかというと、簡単にいえば
ああ、この二郎って奴はまっすぐに生きているな〜、
それに比べて俺はなんてイビツな存在なのかしらと思って、
眩しいやら、情けないやらで、
場面とは無関係の俺の心理的動きによって泣けた。
うーん。俺のある部分が弱っているだけかもしれない。


風立ちぬ」は光の当て方で印象がとても変わる映画だと思う。
文学部で培った俺の小手先によれば作品鑑賞は
作品主題論(主題は何かを考える)
作品文化論(作品内部ではなく作り手の状況や文化背景から主題に迫る)
作品表現論(何をどのように描いているかを表現の面から探る)
これら三つのアプローチがあると竹内先生が言っておりました。


作品文化論には
「作品はあくまで作家が生み出したもの。
作家の意図や身辺状況、作品の生まれた社会情勢などを探れば
主題に近づける」という発想があるのであります。
しかしこれに対して作品の自律性を尊重する考え方があり、
要は作品となった時点で作家の手を離れているのだから
あくまで作品内部から主題を考えるべきだ、という発想で、
これは作品表現論のほうに近づいてきます。


そんなようなことを踏まえた上で、
風立ちぬ」は宮崎駿という個性や宮崎アニメという背景から
切り離して観たほうが楽しめるのかな、
というか俺はそういう風に観たのだと思います。


この映画はゼロ戦をつくって殺戮に加担し、
負け戦に突入するという結果が最初からわかっている点で
「悲劇」だと思う。
堀辰雄の「風立ちぬ」も、結核の少女が死ぬことが
予期されている「悲劇」。
しかも堀辰雄は少女との最期の時をリアルタイムに書いてて、
結末が死に収束していくのを半ば予想、あるいは半ば期待しながら
書いているのが凄まじいんだけど。
堀辰雄の「風立ちぬ」を引用する必然性は曖昧とされているけど、
悲しい結末が「仕組まれている」という点で共通していると思う。


これを、「美しい飛行機をつくりたい」という自己実現のためには
たとえそれが殺戮兵器として使われることがわかっていても
覚悟をもって貫かねばならん、というような
クリエイター=宮崎駿の自己正当化の話として捉えると、
ううーん。。。と非常にモヤってしまう。


個人的には、二郎という一市民の視点からすると
戦争というのも、またそれへの加担も不可避なものだったと思う。
なので、そこを行動に対する責任だとか覚悟だとかに
還元しようとするのは、個人の意思やら個性が
尊重されている現代ゆえの感覚な気がする。
少なくとも現代の感覚で二郎のゼロ戦開発を断罪できる
資格は誰にもないし、それは傲慢ってものだと思います。
関東大震災のシーンがあるけど、天災もまた不可避なものであって、
暗に戦争と対比されているような気がする。


っていうようなことをジワジワ考えると、
この映画は「不可避な運命に対してその中でいかに真摯に生きるか」
というようなメッセージが通底していると思うんです。
(というか、俺は勝手にそう捉えて泣いた!!)


なんか、これだけ人の個性とかエゴが尊重されていると、
「運命に抗って、切り拓くのが尊い」という風潮が
強いと思うんだけど。
いやいや、運命に翻弄される姿は美しいと思う。
まっすぐに真剣に生きたところで天災・人災は起こるし
最愛の人はあっけなく死ぬんです。
それはもうどうしようもなく不可避で、理不尽。
そこに嘘がなくて、全くファンタジーじゃないんだけど、
宮崎アニメ史上、一番「美しい」と思ってしまったんです。
(そう考えるとリアリズムが苦手な人は根本的に駄目かも)
で、運命を素直に受け入れずにあがいてる俺、
むっちゃ醜いな、ってところで泣けた。
あ、書いてて勝手に腑に落ちた。