森茉莉「気違いマリア」

今こそ都市文学だと思うのだ。


朝鮮人だか中国人だかわけのわからない外国人どもが
東京の町を闊歩しているだけで虫唾が走り
頭かち割って脳みそ啜ってやりたくなる位の
極端なナショナリストを自認する自分だが、
どうやら右や左の紳士淑女の皆様方はそうでもないらしい。
おそらく一ヶ月に30分もテレビを観ぬ昨今、
浮世離れが甚だしく仙人と嘲笑を浴びることもしばしばだが
巷のギャルの間でヨン様とかいう外国人がフィーバーあるいは
ブレイク、いわゆるモテモテ中ということ位
おじさんだって知っている。
サッカーのアジアカップで中国人が異様な反日感情
剥き出しにして、自国のナショナリズムに対しては
異様なまでの反応を示すマスコミがそれについて
大した議論を寄せていないことだって知っている。


何が言いたいかと言えば、いい加減足元を見ないことには
経済的にも遅かれ早かれ中国に負けを喫するであろう
日本の拠り所がなくなるということであって、
結局民族主義的帰結ですがイズム云々の話ではなく、
日本人の精神性、イワユル死生観、死んだ人を敬うことで
自らの死も受け入れ生を充実させる、多神教というところに
感覚レベルで立ち返らねばならないと思うんである。
キリストにしたってアラーにしたって、一神教の観念が
まかり通ってる限り戦争なんかいつだって起こるに
決まっているじゃあナイカ


毛唐どものそういうイデオロギーには適当に付き合いつつ
自分たちの素晴らしい文化、精神性を胸に秘めながら
超然としておれば良いんです。
そもそもディベートなんか日本人にはムリがあるのだ。
相手の話を聞いて静かに笑っておれば良いのだ。


話が小説にいかないけど、言うべきことは言った。
市街地から徐々に侵食してくる連中の傍若無人ぶりに
神経過敏に翻弄される様子が滑稽に描かれた小説。
森茉莉の東京人としての選良意識が、滑稽なはずが
むしろとても清々しく思えた。
こうでなくては。超然としておらねば。


都市に向ける自我の投影、それが長年に渡って
育まれた文化に敬意を払うということであり、
言い換えれば死者に敬意を払うことであって
死者と自分との同一化、神人一体化と言えるんである。
それを小説で体現するということがこの時代にあって
重要な意味を持つと、世間に疎いおじさんは思います。