ポップアート1960’s→2000’s @損保ジャパン東郷青児美術館。

juriano2006-08-25

http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/index.html
60年代以降のニューヨークを中心に広まった
ポップアートの現在に至るまでを展示。
リキテンスタインアンディ・ウォーホルの二大スターを筆頭に、
作品を鑑賞しながら時代の変遷を追っていく。


観ながら、作品自体とは全く関係ないところで、ずっと
カウンターとは何かを考えていた。
美術=高尚なものという既成概念を覆す意味でリキテンスタイン
ウォーホルもとてもソリッドだと思った。
シルクスクリーンプリントという大量生産の手法にしても、
自分のアトリエに「工場」なんて皮肉なネーミングを
つけることにしても、やっていることがいちいちブレていない。


この美術展は時代を追って展示しているので分かりやすかったけど、、
正直後半に行けば行くほどうすら寒い思いがした。
ミニマル・アートの作家性の否定だとか作品の無記名性というのは
聞こえはよくても、結局はリキテンスタインとウォーホルがやったことを
引き伸ばしただけのようにしか見えない。


美術やアート的なものが充分に一般人の生活のなかに取り入れられた今や、
作家性の否定なんてかっこつけたって、もうちっとも説得力がない。
そんなこと言わなくても充分、あらゆるモノやコトに
人間の存在感の希薄な時代じゃないか。
無記名性なんて今言ったとしたら、ダラシなく時代に流されているに
過ぎないんじゃないか。


カウンターというのは、人々が自分の生活圏だけを死守して
思い思いのライフスタイルを選択して(○○系云々)、
好きな音楽を選んで聴いて、好きな服を着て、
あるいはゲームをやるなりショッピングをして…
という時代にあっては、共有幻想ということが難しいから、
個人が個人の問題としてカウンターを続けるしかないのかなと思う。


今の時代にソリッドなのは、まあ知らないけど人間の存在感的な
ものだと思う。
例えば、街に落ちているシミなんかを複写しては絵のなかに
再構成する、ということをやっている作家が出てきたけど、
やっぱりあれも死ぬまで続けてたらスゴイなと思う。
なんでそんな意味のないことに死ぬまでこだわり続けちゃったのか、
というところに凄みがある。
ぱっと思いついてただ一枚描いただけだったら、バカとしか思われない。
つまり、その背後に何か、その人間の持っているギリギリのところ、
ここだけは譲れないという、何か強烈な意思を感じ取ってしまうわけです。


今の時代の特徴というのは、やっぱりスタミナのなさなんじゃないですか。
すぐに結果を急いでしまう。続けるっていうことができない…
自分が誰よりもそうだから、痛いほど分かる。
すぐ会社辞めるとか言う。こういうのは時代を映している。
何か安直な思いつきで…方法論やスタイルで世界を動かせると思っている。
そんな時代は、ひょっとしたら少し前まであったのかもしれないけど、
今は難しいことかもしれない。


だから今最もソリッドなのは、自分がどうしてもこれだけは
こだわってしまうということを見つけて、それが人にはくだらないと
思われるようなことでも淡々と続けるようなことじゃないでしょうか。
職人的なあり方を、そのやってること自体に甘んじてしまわぬよう
気をつけて、迷い苦しみながら続けることじゃないですか。
まあなんて泥臭いんでしょう。