森山大道展「25時 shinjuku, 1973」@タカ・イシイギャラリー。

juriano2006-08-26

http://www.takaishiigallery.com/exhibition/2006/07_shinjuku-1973-25pm/japanese.html
森山大道が73年に撮影した8mmのフィルムが発掘され、
このたび公開された。
ブツの内容は森山がオートバイの後ろに乗って
夜の新宿をノーファインダ撮影した15分くらいの映像。


清澄白河はタカ・イシイギャラリー。
初めて行ったんですが、雑居ビルの5階に雑然とあって
ナカナカすごい空間だ。
白塗りの壁にガラーンとした空間が無骨に広がっている。
受付もなんもなく、カウンターにはこれまた無骨に
記事をファイリングしたスクラップがデンと置いてあるのみ。


勝手に入って勝手に見てけば?
という放置プレーなので、そんならまあ、勝手に見ます。
ということで、ファイルを立ちっぱながら気持ち的には
極めて腰を落ち着けつつ、じっくり眺むる。
大した資料だ。
これだけ揃ってれば論文のひとつやふたつ、鼻歌交じりで
書けるんじゃないですか。


で、まあファイルは面白いんだけど、オレ一応
映像観に来たんだけどな〜。どこ?
何かこの暗幕で仕切られてる向こう側がとても怪しいんだけど
コレ勝手に入っていいのかな〜
と思いつつ惑いつつカウンターをチラと開けてみれば
壁に映し出されたぼけた映像とオートバイのエンジン音。


これまた無骨なる空間で、広い部屋にポツネンとプロジェクターと
スピーカーが置いてあるのみ。
こういうギャラリーにはありがちでなんでしょーが椅子も何もなく。
わーったよ、そういうことだろ〜と地べたに座り込み観る。


さて、映像の内容ですが、まず見事に何も映っていない。
車のヘッドライト、街の電飾、うごめく人の影が
何とか認識できるくらい。
いくらノーファインダといっても
ピントが本当に一度も合わない。スゴイ。
よって、1973年と言われても全く分からない。
一瞬映る看板のフォントに辛うじて時代を感じさせるが、
感触としてはまるでついさっき素人がその辺で
映してきたような感じ。
その位の生々しさ。


これは観ていて正直、キツかったんです。
どこにも出口のない映像だった。


森山の「写真とは何か」という問いかけは、
写真でやってこそ意味のあるものなのに、なぜそれを
映像でもやっているのか。
というのは、多分現実の捉え方に対する根源的な疑問が
あるからだと思います。
森山のよく言う「擦過」するイメージというのは、
主観で捉えている現実であって、それにこだわる意味で
森山は主観的な写実主義者といえます。
だから森山の写真はどの街の写真でも、どの時代の写真でも、
どこで切り取っても森山大道の作品にしかならない。
森山が疑うのは実際は主観であって、結局のところ
「自分とは何か」ということになるんではないでしょうか。


彼が「移動」にこだわるのも、やっぱり自殺のようなものだと
思います。
他人との関係性における自分を抹殺していく。
そうすると、目の前にあるイメージが現実の全てになる。
なのに、そのイメージがボケてしまっているキツさ。
唯一自分が自分であることを証明してくれるはずの映像が
ボケてしまっている薄気味悪さ。
その薄気味悪さは、多分に分裂っ気のあるワタクシも
日々感じる薄気味悪さなので、観ていて辛かった。


だからこれは自己を喪失した人間の映像なんです。
当時の森山の心境がそのままドキュメントされている。
孤独を突き詰めると、多分ここに到ると思います。
ヒジョーにやりきれなかったです。


(写真は、手慰みに書いた森山のシルエット。)