坂口安吾。

なぜか無性に坂口安吾が読みたくなって
ブックオフ講談社文芸文庫の「風と光と二十の私と」を
衝動買いした。
多分、同じのを持ってたような気もするけど
段ボールの奥底に眠ってるから探しようがない。
(聞いたら、ケースケ氏も似たような状況らしい)


卒論に追われてた頃、がむしゃらかつディープに
安吾を読んでいて、相当観念的になっていたけど
当時の身辺状況も含めて物事の摂理や本質が
色々な次元でクリアに見えてくるような、
一種のハイ状態が続いていた。
音楽も文学も、生きることも、大事な要素はあらゆる次元で
繋がっていることが見えて、そんなことを発見するたびに
異常なまでに盛り上がっていた。
文学研究でも、とにかく本質にしか興味が出なかったのは、
それを通じてほかのことを分かろうとしていたからだと思う。


そんな中で「掴まえた」と思った大事なことは
指の間から砂が落ちるようにほとんど忘れた。
いや、言葉で繰り返すことができたとしても、
その背後にある言葉にならない裏付けのようなものが
実感として伴わない。
あれはやっぱり一種のハイ状態だったと思う。
今、距離を置いて安吾を読んでみると、
全く違う印象もあり、全く違う部分が引っかかったりして面白い。
突っかかるような、お世辞にもうまくはない文章の中に、
ぞっとするような綺麗な一節が入っていたりする。


<私の冷たい心が、女の虚しい激情を冷然と見すくめていた。すると女が突然目を見開いた。その目は憎しみに満ちていた。火のような憎しみだった。>
(「私は海をだきしめていたい」)


平易な言葉で、からっとしていて、
何者にもおもねらない、
潔癖で突き放す感じがどうにも好きだ。


そういえば「ホームタウン」というこの
格好良くも何ともないバンド名の由来は坂口安吾からだ。
安吾の文学、というか安吾の生というのは
「ふるさと」という名の孤独への偏愛(タナトス)と、
孤独を忌み嫌って現実へ向かおうとする(エロス)
二律背反の中で繰り広げられる、終わりのない、
見苦しくひたすらキョーレツな葛藤です。
結論のない葛藤の、この振幅の広さと勢い自体が
安吾の自ら生きることに課した命題のようなものがあって、
僕はそれに痛く共感するのでバンド名にも頂戴した。
あとは仲井戸麗市の「ホームタウン」という曲が
好きだから、っていうこともある。


安吾、ぜひ全集を揃えたいけど
ちくま文庫版の全集もそうそうお目に掛からない。