130511夭折の鬼才「飯野賢治を学ぶ。」第3回@iid。

昨日は夭折の鬼才「飯野賢治を学ぶ」第3回の講座を
受講してきた。@iid。雨の中。
受講目的もモヤってるくせに、我ながら無駄に熱心。
今回は割ときっちりノートを取った。
ゲストには元warpの立石氏と林田氏、
あと3DOマガジンやサターンFUNの元編集長、北根氏。
前回は飯野氏の作家性がメインの話題だったが、
今回はゲーム史的ルーツに迫る内容。


18歳で入社したインターディンクで飯野氏が手掛けた作品
ウルトラマン倶楽部2」('90発売時、飯野氏は既に退社)、
19才で立ち上げたゲーム制作会社EIM時代の
「たいむゾーン」('91)、
「わんぱくコックンのグルメワールド」('92)
などの映像を振り返った。
記憶が合っていれば、小4ぐらいの頃、
EIM時代の飯野氏のインタビューを当時ファミマガ
読んだような、気がする。
なお当時から、飯野氏はスタッフがプログラムをしている横で
「真剣に」ギターを弾いていたり、
会議にはギターを弾きながら登場(しかも笑点のテーマ)
していた、などの奇行エピソードが披露された。


90年前後はファミコンソフトを出せばアベレージ40万本売れる
ゲームバブルの時代。
一方でいわゆる「アタリショック」の前例があった。
これはゲームバブルに乗じてソフトを出しまくった結果、
クソゲーが蔓延し、ハード自体ダメになってしまったというもの。
ファミコンもキャラ物や焼き直しのソフトばかり溢れ、
この状況に少しずつ近づいていた。
飯野氏は納得のいかないソフト開発への反動から
ストレスピークに達し、ついに出社拒否となり、
EIMは3年で休眠。


この後、海外のゲームショー的なイベントに
通うようになり、そこでは「悪そうな」若いクリエイター達が
ヤバイゲームを作り、ブースを展開し、
雑誌やメディアでもバンバン発言していた。
これにカルチャーショックを受けて
より作家性のあるインディペンデントなゲーム制作を志し
warp」を設立。
なお、当初「IQファクトリー」という名前が有力候補だったのを
最後に飯野氏が「warp」に改めた。
専門性を匂わせるネーミングを避けてよりメジャー感を志向。
飯野氏は、何ごとも名前をつけるところから
アプローチする人だったという。


warpのデビュー作、3DOの「宇宙生物フロポン君」の映像を観る。
いわゆる落ちゲーで、これを最初に手掛けたのは
パズルゲームをつくるのが一番ハードの勉強になるからだそうな。
おまけ映像のスタッフ紹介がむちゃくちゃパンク。
当時のwarpはアンリミテッドで、毎日文化祭状態。
以下、実況ワールドサッカーの敗者に課せられた罰ゲーム。
・ギター弾き語りで吉野家注文、
・タクシーの運ちゃんに「パンティ」と言わせるまで降りてはいけない、
・恵比寿駅前でソフト手売り、
・コンビニでその場でアイスを食う(食った後で会計)、
・「loser」と書かれたTシャツ&チョンマゲで日テレのお天気お姉さんの肩を抱く、
などなど。すごい。


Dの食卓は当初94年秋発売予定だったのが、
最終的に95年4月1日になった。
95年3月には資金繰りのためミニゲーム集「突撃機関メガダす」を発売。
時間切れでDの食卓の話まではいかなかった。


この他印象的なエピソードとして、
飯野氏は何事も際限なく考え込んでしまう性分で、
例えば着る服ひとつ取っても悩み出すときりがない。
そこで「黒いジャケットを着れば良い」という風に
セルフプロデュースすることで、ひとつずつ
悩む要素を排除していったそうな。
また、飯野氏は麻雀をやらなかったそうだが
後年興味を持った際、ひたすら時間一杯かけているので
「もっとサクサクやるんですよ」とアドバイスされたところ
「よくできるね、俺にはむり」と言い、
捨て牌から確率計算をするようにやっていたという。
「そうしないと勝てないじゃん」と。
飯野氏らしいエピソード。