北温泉旅行記〜初日。(後篇)

北温泉
 北温泉ファサードは、いかにも異界への入り口という風情で絵になり、ついつい写真を沢山撮ってしまう。

 いざ玄関をくぐると、いつの時代のものとも知れないストーブにまず目が入る。薄暗い待合い所、低い天井など、全てのディテールがレトロと呼ぶには突き抜けており、どこを見ていいものやら言葉を失う。

 促されるままに靴を靴箱様にinして、帳場にて住所氏名を記入し、チェックイン。食事の際のビールを勧められたので、とりあえず一本頼む。700円。
 食堂(亀の間)の位置など簡単に説明を受け、部屋に通される。3階337(松の間)。部屋に行く途中の螺旋階段、廊下壁面の赤い壁(ベンガラ?)など年季の入り方が半端ない。床はギシギシと軋む。「これはスゴイね・・・」と珍しく大下も興奮している。

 部屋に暖房はない。中央にコタツが鎮座しているので、とりあえず電気を入れ、コタツに入り一服する。携帯をチェックすると電波は見事になく、まさに現世と隔絶された空間。

 マアとりあえず一風呂行きますか、ということで浴衣に着替える。大下は浴衣を嫌いそうだったが、観念したのかいやいやながら着ていた。普通の浴衣の上に、帯のない厚手の羽織物を重ね着する。洗い場があるかどうか不明であったが、一応シャンプー等持参。
 温水プール(泳ぎ場)は日帰り入浴客が帰ってからのほうが良いと思われたので、まずは露天風呂(男女別)の河原の湯に行く。
 途中、フロントに寄り土産コーナーなどを少し見る。なんか、普通の菓子類が一袋150円で売られているのだが、どうも現世から仕入れてきた品、という感じで違和感がバリバリなのがスゴイ。北温泉タオルが200円で売られており、後で買おうと思ったのだが見事に逃した。温水プールはまさにプールのつもりらしく、子供用の浮き輪なども貸し出しているのに驚いた。

 ついでに少し探検したが、まさに迷路の如しで、決して広い訳でもないのだが道を覚えきらない。しかも、室内に足湯があったり、唐突に神社のようなものがあったり、昭和天皇の写真が掛けてあったり、ごった煮感が半端ない。様々な民具が壁に掛けてあり、田舎の農家のような雰囲気もある。大正というより明治、江戸の佇まい。

 圧倒されつつ迷いつつ、河原の湯に到達。ちょうど先客はおらず、脱衣所(狭い)で浴衣を脱いで外に出るといかにも寒く、ぐおーと言いながら湯に滑り込むと、足下がヌルッとしており危うくしょっぱなからコケそうになった。
 眼前に迫るダムは人工物ではあるが、山に囲まれ野趣溢れる感じだ。「いやーこれは人に自慢できるネ」などと言う大下だが、公衆浴場自体あまり好きでないのか、居心地が悪そうなのが面白かった。女湯のほうに首を伸ばしてみたが流石に何も見えず。そのうち日帰り入浴客と思しき白デブが入ってきたので、嫌な絵ヅラだなアと思う。
 湯は透明で温度自体はかなり熱い。足下はヌルヌルしているが、湯自体はあくまでさらっとしており、物足りない位だ。なお、洗い場はここには皆無であった。他の湯に行けばあるだろうということで、そのまま体を拭いて上がった。
 時間がまだあるので今度は天狗の湯に行くことにする。天狗の湯は廊下の先に突然あり、湯船とを隔てているのは簡単なすだれのみ。これで混浴とか言われても、女性が入るのはまず無理であろう。実際、中年のオッサン共で賑わっており、混浴エロスなどとは無縁の感じであった。

 やはり北温泉といえば天狗の面に囲まれたこの湯が一番有名なので、しっかり写真を撮りたかったが、流石に先客がいるので難しい。先ほどの白デブが今度はこっちにいたので、嫌だなアと思う。
 脇にある脱衣カゴに浴衣を脱ぎ捨て、いざ入湯。河原の湯よりも温度はだいぶ温い。湯質自体は似たようなものだった。
 見たところ3つある天狗の面を観察する。小振りながら険しい表情で凄みを利かせている天狗が、色が黒ずんでいて一番古そうだ。あとの二つは鮮やかな赤色で、比較的新しそうに見えた。鼻のそそり方が怒張した男性器的にエレクトしているものと、普通に伸びている形状のものとがあり、その違いを観察したりした。「この赤い色は、温泉の蒸気に曝されていても変色したりしないのか」と化学的な疑問を言い出す大下。
 他の客たちがランプに張っている蜘蛛の巣の風情を讃え合っており、マア俺もその通りだとは思うが、流石に取ろうよという気もしなくはない。
 ところで、ここにも洗い場らしきものは見当たらず、ああ、要は無いのだなということが理解され、もはやシャンプー等を使用するのは諦めた。
 混雑してきたので、天狗の湯の外にあるうたせ湯、家族風呂などを冷やかしに行く。大下が無遠慮に家族風呂のドアを開けようとしたが、内側から鍵が掛かっていた。
 うたせ湯は東屋の中にあり、上からズバズバと勢いよく湯が降っており、その下に細い板が置いてあるのだが、どうも使い方が判然としない。頭にハテナマークを浮かべながら、滝行のように垂直方向から肩に当ててみたり、板の上に頑張ってうつ伏せ風になってみたりしたが、一向に案配がよく分からないので諦めて退去する。なにしろ寒いのである。
 再度天狗の湯に浸かり、体温回復してから上がる。当初ドライヤーの存在に気づかなかったため(天狗の湯を出たところに備え付けてあるのを後で発見した)、襟足濡れっぱなしのまま浴衣を着るものだから、浴衣もビショビショとなり、それが冷えて体温をどんどん下げるのです。
 何かもう、部屋に戻るまでに完全に冷えきってしまう上に、室内がまたなぜか廊下以上に寒い。お茶など淹れつつ、コタツに入る。

 しかし、風呂に入る以外に本当に何もすることがない。眼前には古びれた空間に不釣り合いなAQUOSのテレビが鎮座しており、腹いせにコイツをスイッチオンしようと思ったのだが、点かない。電源が入っていないのではないか?とコードを手繰ると、どうもグレー色の謎の箱を経由している。硬化投入口がサイドにあるので気づかなかったが、これは2時間100円式を制御する近代装置なのであった。

 大下が不敵な表情を浮かべつつ硬化を投入しようとするので、「否待て、この後すぐに夕飯だから今使うと損だ」と叫ぶ貧乏性の俺。
 煙草の味がおかしく、先刻から鼻水が止まらず、心なしか喉も痛く、やばいなと思う。温泉で回復するどころか、治りかけの風邪が悪化しつつあった。
 そうこうしている内に気づけば18時になっている。食事は17時50分厳守と言われていたので、逆上する。とりあえず浴衣は寒すぎるので、服に着替えて食堂に急ぐ。
 亀の間の入り口で337の客である旨告げると、大広間の予め決まった卓へと促される。急いだ割にはまだ来ていない客も複数いたので安心する。
 大広間にはかなりの人数(3、40人くらい?)が集まっており、人気の高さを改めて実感する。それとなく客層を見渡すも、若い女性客というのは皆無であった。テルマエロマエの影響もあって、若い客が増えているのではないかと勝手な想像をしていたが、見事に客の中心は中年から初老の温泉好きオッサンズであり、カップルというのも極めて少数派、家族連れというのも、見たところ隣席の一組くらいのようであった。
 「オッサンしかいないね」と連呼していると、大下が「怒っているんですか」と言って嬉しそうにしている。大下はニヤニヤしたまま大瓶からビールをお酌してくれ、またテキパキとおひつから白米をよそってくれ、女子力の高さをアピールしてくるので、何か不気味であった。

 半ば嫌がらせ的にチョモランマ盛りをしてくるのだが、俺は旅先では特に食が進むのだ。そのような盛りつけは物ともせず、お替わりしておひつの米はすべて平らげた。
 しかし、考えると酒を一滴も呑まない大下のことであるし、一人で大瓶一本は完全に持て余したので失敗した(呑んだけど)。
 さて、問題の食事なのだが、事前に情報を仕入れていた通り、オカズがことごとく冷めており、辛うじて温度を保っているご飯で誤魔化して食べる格好なのだ。大広間自体も決して暖かいとは言えず、これはなかなか辛い。唐揚げ、アユ、キンピラ、おでんに至るまでことごとく冷たい。冷めたおでんとか、炭酸の抜けたコーラに等しいではないか。決して不味い訳ではないので完食したが、電子レンジにでも掛けてほしい位であった。茶碗蒸しとお吸い物は一応温かかった。
 膨れた腹に無理矢理ビールを流し込み、部屋に帰る。食後の煙草を吸っていると、やはり喉が痛く、やばいと思う。テレビもつけず、またダラダラと喋る。内容については割愛するが、三十路を迎えて皆色々なことになっており、会話の内容も学生時代とは自ずと変わってくる。俺は何の覚悟も据わっていないが、向き合うべきことに一つずつ向かっていこうと思った。
 何かもうだらだら喋って喉も痛いのだが、流石に温水プールに入らなければ来た甲斐がない。時刻は既に21時を回っていたが、客の減ってきたちょうど良い頃合いとも言えよう。
 重い腰を上げて浴衣に着替え、いざ泳ぎ場(温水プール)へ。外湯は相の湯と泳ぎ場とがあり、相の湯の脱衣カゴで服を脱ぐのだった。まずは到底寒くて耐え難いので相の湯に浸かる。東屋の中のかなり小さな湯船だ。湯は熱めなのがとりあえず有り難い。しかし、野郎二人で狭い湯船に浸かっているのも居心地が悪いので、大下を残して早々に泳ぎ場に移動する。景観を楽しむべく眼鏡着用だ。

 湯煙の中、幾度となく写真やイラストで見た温水プールが幻想的に広がっており、感動する。最初、先客が一人いたが、間もなく上がってきたので、このだだっ広いプールを独り占めの状況である。対岸側の隅っこに陣取り、仰向けになり夜空を仰ぐ。月がくっきり満月でよく見えたので観察する。成程、ウサギだねと思った。
 眼鏡はほとんど曇ってしまうのだが、ぼやけたレンズ越しに電灯を見ると光の輪がくっきりと見え、何かつげテイストを思わせてよかった。
 対岸側から旅館を湯煙越しに見ると、完全に異界というか、今がどの時代かわからなくなる。遙か前からこの眺めは同じなのだろう。
 当然と言えば当然だが、湯には落葉した枯れ葉が多数浮かんでおり、衛生的とは思えないがもはや気にもならない。湯はぬるく、身体の境界線が判らなくなる感じで、胎内の如し。しばし忘我する。
 しかし、こんなイイ状況であるにも関わらず、大下が一向に姿を現さない。勿体ないやつだなーと思いながらも、それも半ばどうでもよくなり、空を仰いだまま静止する。
 すると、なんと男女のカップルが入湯してきた。女性は白い水着を着けており、何しろ対岸&湯煙でよく判らないが、食事の時には見かけなかったと思われ、割と若そうにも見える。
とはいえ、互いに遠慮しつつ対角線上に移動する。
 カップルは泳いだりしてはしゃいでいる様子で、それを半ば温水プールに棲みついた妖怪のような気持ちになりながら静止しつつ眺める。カップルもそのうち上がっていった。
 4、50分は浸かっていたように思うが、結局大下は現れなかった。しかし、鍵は俺が持っているのだ。そろそろ潮時かと思い、相の湯に戻ってみたがやはり大下の姿はなく、鍵も俺の脱衣カゴに元のままあった。とすれば、宿泊者専用の休憩所にいるはずである。
 案の定、大下はそこに居り、備え付けのマンガ本の中からテルマエロマエを読んでいるのだった。この空間にはマンガ本などがかなりの数置いてあり、なぜか中国語版のドラえもんなどもあったので、試しに解読できるか読んでみたが、すぐに飽きてしまった。

 しかし、驚くべきことに大下は相の湯で気が済んでしまったそうで、暖まり、座禅を組んだ後、早々に上がってしまったと言うのだ。恐るべきマイペース。北温泉まで来て、温水プールに入らずに帰る客など、かなりの少数派に間違いない。俺は十分堪能したので、一向に構わないが・・・。
 自販機で、体調のオカシイ俺はカシスオレンジなどというオカシイ飲み物を購入し、部屋に戻ってささやかな宴とした。
 折角なので、100円を投入しテレビをつけてみることにした。硬貨を入れると、勝手に電源が入った。俺も大下も普段全くテレビを観ない人種なので、極めてシュールな状況と言えるが、チャンネルを回していると、NHKで左手のピアニスト、智内威雄氏のドキュメンタリがやっていて、面白そうなので観ることにする。「明らかにハンディなのではないか」と訝る大下。元々は両手で弾いていた将来有望のピアニストだったが、練習のし過ぎで右手が演奏不可となり、左手のピアニストに転向。実は左手用の曲というのはバッハの時代からスコアが書かれているのだそうだ。
 観ている途中、段々はまってきたところで電波のせいか映像が乱れ始め、かなりひどい状態になり腹立たしかった。斜め45度から手刀を浴びせようかと思ったが、大下がネタを理解しないので、止した(昔の電化製品は、斜め45度から叩くと大体直るという俗説があるのです)。
 そのうち映像回復し、結局1時間番組をほぼ全部観てしまった。時刻もかなり遅いので、まあ布団敷きますか、ってことでコタツを隅に寄せ、布団を直角に敷く。俺は窓際にしてしまったが、考えれば冷気が入ってくる寒いポジションであり、後悔した。
 早々にくたばった大下を置いて、俺はだめ押しにもう一度入湯しようと考えた。この時間ならば天狗の湯が空いているだろうと思ったのだが、「先刻トイレ行った時に見たら、オッサンが寝てたよ」と大下が言う。マジか、と思い一応覗いてみると、成る程オッサンがだらしのない姿態を晒して寝ている。
 腹が立ったので天狗の湯はやめ、最初に入った河原の湯に再度行くことにする。客は皆無であり、正解。闇に包まれ、砂防ダムの水流を間近に聴きながら、一糸まとわぬ姿で仁王立ちしていると、野生の獣になったような解放感だ。
 空を見上げると星。星座の形がくっきりと見え、あの砂時計のような形の星座は何という名前だっけ、ああオリオン座かとロマンティシズムなことを思う。
 しかし、あのいかにも寒い部屋で眠るには、ここでしっかりと暖を取らねばならない。首まで浸かり、水分を念入りに拭き取ってから上がった。
 時刻は既に0時を回っている。流石に人気がなくなったので、このタイミングに玄関周りなどを撮影する。ディテールがいちいち凄いので、何にフォーカスして良いものやら判らない。玄関を入って左手には足湯があるのだが、これは一段上の祭壇に行く前に身を清めるためのものらしい。試しに足を浸けてみると、ものすごい高温だ。しかし、身体を暖めるには大変具合が良い。
 部屋に戻ると、大下は布団を被ったままくたばっていた。

 アメニティは一切ないと覚悟していたが、歯ブラシ(歯磨き粉が予めついている)のみあったので、記念に使うことにする。天狗の湯の脇にある流し台に行くと、天狗の湯には3人組のオッサンズが、湯質についてphがどうのこうのと語っている。流し前の灰皿にて一服しつつ、それらのやりとりを聴いて、何か侘びしさを覚えつつ、歯を磨く。流しの水は凍結防止のために常に流しっぱなしになっている。
 部屋に帰り、体調もよろしくないし、いい加減寝ることにする。GR4と携帯のバッテリを充電。布団も十分な暖かさとは思えず、風邪が悪化せぬよう祈って、服を着込んだ上に更に浴衣を重ね着した状態で布団に入る。間もなく眠りに落ちた。