太宰ゼミ。

juriano2005-01-13

ウエーン。終わりっこない。タスケテー。
人間失格』、今までで一番難題。
というのも、はっきり言ってこれは!と思う先行論文が皆無なのだ。


人間失格』発表後間もなく太宰が亡くなっているというのもあり、
また、当時作家論が主流だったということもあり、主人公・大庭葉蔵と
太宰自身を被らせる読まれ方がずっと為されていた。
でもそれは、特に『人間失格』に関しては健全な読み方じゃないでしょう。
太宰が何かにつけてスノッブにされてしまうのは、ある意味で
そういった読み方を助長する研究者の責任でもあるのではと思った。


なぜそういう読み方がダメかと言えば、読み手が作品を対象化させて
距離を置けなくなってしまうからで。
「大庭葉蔵=太宰治」の図式に、さらに「=自分」がくっついてしまう。
これは不健全な読みなのであって、なぜならこの図式が成立した
時点で、そいつはそれ以上自我を育てることができないからだ。
しかもそれは、自分の生のコミュニケーションで会得した自我ではなく
完全に借り物だから、脆いし、偏狭だし、救いがない。
こんなこと、誰かアーティストに心酔して、それを自ずと相対化して
卒業できた経験を持ってるヤツなら、当たり前のように分かるハズだが、
学者バカはこういうことすら把握できていない。


最近の研究では、もっと純粋に作品論的なアプローチが始められる
ようになってきたが、俺に言わせるとそのどれもがこざかしい。
なぜなら、その背後に前提となるはずの、今言ったような
作品と読み手との関わり方の部分で思想がないからだ。
大庭葉蔵の精神分析とか、そんな飛び道具的な研究を始める以前に、
もっと基本的な部分でやり残していることがあるだろうが!


と、勝手に一人憤っているんですが、発表まですでに残りあと3日、
オリジナルなことをやるには、時間が足りない。
プライドとCでええから単位おくんなさい、という俗根性のせめぎ合い。